神経症の内に恐怖症があります。森田療法によると 人の感情のうち好ましくないと思える感情(例えば恐怖心)も生きていく上で必要感情だそうです。それはそうだと思います。恐怖心がなければ怪我する事も死も恐れない為に身体の方は大変な事になります。恐怖症の基になっているのは生命の危機のようです。ところが生命の危機はまったく無い部分で恐怖が一人歩きします。また この状態が酷くなると強迫的観念を伴います。恐怖症の恐怖心は単なる怖いとは違います。こみ上げてくる怖さです。身体が反応するので 身体感覚にもでます。
実は私も高所恐怖症です。一番初めに感じたのは小学1年か2年の時に東京タワーの展望台から下を見た時です。身体の中の何かが下にサーと下がるような怖さでしゃがみ込みました。小学校高学年の時、3階建ての校舎の屋上でドッチボールをしていて高く上がったボールを見た時に同じような感覚になりました。
何時だったか 友達に高いところで上を見ると怖いとい話をしたら、それは本物の高所恐怖症だよ・・といわれて満足な気になりました。ところが高いのが一切駄目かというと そうでなく小学校の時に富士山に登ったときも 中学で吾妻山に登ったときも怖いと感じた覚えはありません。
また 不思議な事に飛行機は平気です。ビルのような切り立った場所がダメなようで 不思議なものだと思います。ところでサーと下がる感じというのは 中医学でいえば『気が下る』という状態だと思います。
中医学では
怒り過ぎると 気が上がる
喜び過ぎると 気が緩む
悲しみや憂いが過ぎると 気が消える
恐れ過ぎると 気が下がる
驚き過ぎると 気が乱れる
思い過ぎると 気が結す
と考えます。
高い所 暗い所(夜道など) スピード などに恐怖を感じやすい人は多いと思います。しかし 行き過ぎて生活に支障をきたすと神経症になってしまいます。不潔恐怖・対人恐怖・閉鎖恐怖・動物恐怖・・・・・・ありとあらゆる物に恐怖症があります。不潔恐怖症になって1日中手を洗っている人もいます。合理的に考えたら不毛な事をしているわけですが、恐怖心のあまり合理的に考える事が出来なくなってしまっている状態です。
この況は暮らしていくのにとても大変で、生きているのもつらいと思います。ただ拘るのをやめて、楽しい事に目を向ければ・・・ ちょっとのことでしょって周りは思うのですが、本人の立場は崖っぷちを歩いている恐怖が絶えず付きまとっているわけですから、他に目をくれるわけにはいかないのです。
中医で恐れは腎と関わる感情です。中医ではどんな方法があるのでしょうか
怒・喜・思・憂・恐は五志といい それぞれ 五臓と関係しています。
肝・心・脾・肺・腎の順でで恐れは腎です。
「恐怖のあまり ちびっちゃった」・・・なんて事があると思いますが、恐れは腎だからです。
もうひとつ恐れと関係あるのは胆です。肝腎同源といいますが、胆は肝の腑です。肝腎の強さと恐れやすさは関わりがあります・・・なら 肝腎を丈夫にする事は恐れない心を作る事につながるはずです。肝が実すぎると怒ですから、肝が虚なら肝と相生関係にある腎も弱いといえます。恐怖心を持っている人は自信なさげです。なんだか弱弱しい感じです。ですから五臓を養い心を養う事はとっても大事です。
恐れの感情はもともと人にそなわった感情ですから、取り除く事はできません。ですから 自分にとって不快な感情も受け入れてやるべき事をしていこう・・・と森田療法にあります。しかし受け入れるといっても、なかなか難しいものです。ただ恐怖の感情をもつ事物にばかり注意をはらっていると感情を膨らしてさらなる恐怖を感じるというのが心の仕組みのようです。
ちょっと恐いテレビドラマにこんなシーンがよくあると思います。ドアの向こうからヒタヒタと誰かが近づいてきます。ヒタヒタ その足音に恐さが増してきます。ヒタヒタ・・・どうなっちゃうのかしらと想像を膨らましドキドキしながら見ています。ふいにドアがあいて なんでもない人物がたっています。・・・なーんだ(^。^)
これは人が恐さに集中すると恐怖心を膨らせるという法則のようなものを巧みに利用して恐怖を大きく演出しているのです。ですから 恐い感情をそのままに こだわっている事柄をから目をそらしてやるべき事をやるというのは恐怖症の克服に一理あるわけです。膨らして恐怖が増大してしまわないうちに・・・
テレビの話にもどりますが、テレビを見ている人は恐怖心を膨らせてドキドキする事を楽しんでいるのです。恐怖を楽しむなんて・・・何故出来るのでしょう?それがテレビで ただの話で自分の身に起こっているわけでない事がよくわかっているからです。これは理性です。冷静に判断しているのです。もし テレビと実際を混同してしまったら楽しむどころではなくなります。『中医心理学』の本の中に「道理を以って思をおこし恐に勝」とあります。恐は腎の志で思は脾の志です。脾と腎は脾が腎を克する関係です。
つまり思は恐に勝つ。「恐いものは理屈じゃなく恐いのだから仕方ない」とかでなく、道理をもって思をおこす事をしていく事はとても大事な事です。またそれに ともない脾や腎を補う事もわすれてはいけません。